『じゃりン子チエ劇場版』について

藤田:そう考えたときに、『じゃりン子チエ劇場版』になってくるとちょっとまた体制が変わってきて、画面構成をやっていた宮崎駿という人がいなくなりました。その代わり作画監督に小田部さんと大塚康生さんっていう2人体制になりました。
この経緯についてお伺いしたいのですが、まず、どういう形で小田部さんは参加される形になったのですか?

小田部:テレコムというところで『じゃりン子チエ劇場版』を作ったんですけど、その時、宮﨑駿は『リトル・ニモ』の監督の仕事があったんで、僕が『チエ』に参加した時に彼は『リトル・ニモ』のイメージボードをたくさん壁に貼っていた。

藤田:(観客に)説明させていただくと、当時、藤岡社長というテレコムの社長さんが、日本のアニメはアメリカに進出するべきだと言って、すごいお金をかけてアメリカでの公開を目的として作ったアニメーションがあるんですね。
これが『リトル・ニモ』という作品で、紆余曲折あって最終的に公開されたんですけどあまり上手くいかなかった。だけど、制作途中で作られたパイロット・フィルムがどれもすごくって、それが評価されたりとか。あとここで育った人たちやスタジオの制作姿勢が、後々のジブリの源流にもなっていくっていう形になるんですけど、その『リトル・ニモ』準備を宮﨑さんはやっておられた。

小田部:そうですね。

藤田:小田部さんはなんで外からテレコムに?

小田部:大塚さんから話があったと覚えてたんですけど、ある昔のインタビューを見ましたら、僕はちょうどその頃、職をなくしていて、大塚さんに「何かない?」と言ってたらしいんですよ。そしたら「今度チエをやるんだけど一緒にやらないか」と言われて。
ちょうど実は、ある作品に関わっていて、その作品がぽしゃって。

藤田:ある作品っていうのは…

小田部:それはですね、実はハイジを作った瑞鷹映像が、NHKと提携してテレビと劇場用で「セレンディピティ」を作るって話だった。

藤田:のちにテレビスペシャルになるやつですね。

小田部:結局はテレビにだけにはなりましたけど、劇場用はダメになりまして。その準備段階をしている時の昼飯を食べにいく飯屋に、雑誌がいっぱい置いてあって、漫画アクションなんてのを見てましたら、『じゃりン子チエ』が載ってたんです。 実は僕はチエを飛ばし読みしてたんです。というのはもうチエの顔を見ただけで乱暴な、なんだこの漫画はなんて僕は飛ばしてたんです。 そしたら「セレンディピティ」を一緒にやろうとしてたパートナーの奥山(玲子)が「私はこの雑誌の中ではチエしか読んでいないわよ」って。
「そんなにおもしろいの?」って言ったら「あれを読まなきゃダメよ」なんて言われて。

藤田:じゃあ、奥山さんに言われて。

小田部:そうなんですよ。それでもう一回見直してみたら、なるほどっていうか。僕は…京都の人に悪いんですけど(笑)関西弁があまり好きじゃなくて。 特に大阪の漫才なんかを聞いても乱暴すぎてダメだったんですよ。でもはるき悦巳さんの原作から受ける大阪弁はなんとも温かそうな感じで。

藤田:柔らかいですね。

小田部:それできちんと読んでみたらすっと入ってきて、なるほど面白いと思ってたもんですから、そこで大塚さんにすぐぜひ一緒にやらせて下さいと。それで参加したんですね。

藤田:その時の奥山さんはなんで「じゃりン子チエ」をお気に入りだったんでしょう?何かお話ありました?

小田部:やはり、内容でしょう。僕はもう上辺だけの表情。何だ同じ顔ばっかりして、と思って飛ばしてたんですよね。

藤田:確かに初期の頃はすごく絵柄が濃いですからね。
そうしてテレコムに呼ばれて。テレコムのその頃っていうのは丁度『ルパン三世 カリオストロの城』を作ったあとで、第2作目がこの『じゃりン子チエ劇場版』になります。
『ルパン三世 カリオストロの城』を作ったスタッフがある程度成長して固まってた。そこで外から小田部さんだけが入ってこられてるんですね。やりにくさとかそういうのは全然なかったですか?

小田部:全然感じないんですね。と言いますのは、アニメーションを作った仲間がいますし、大塚さん、高畑さんや宮﨑もいるし。ですから何のわだかまりも感じなかった。

藤田:当時のスタッフのいろいろな証言を雑誌とかで調べてきたんですけど、例えば、声を誰にするか、という会議の席に小田部さんも同席されてるんですよ。大塚さんとか一緒に会議に出て…

小田部:それはないですね。

藤田:え?雑誌には、声を決める会議のあと、そのまま秋津の方へ行って合宿した、みたいなことが書いてあったんですけど…

小田部:それはたぶん違うと思います。と言いますのは、作品を作るときにやっぱりスケジュールとかの問題もありますし。 その準備に入りますとアニメーターはすぐ絵の方、キャラクターとかですね、そっちにかからなきゃいけなくて、そんな時間がないんですよ。だからほとんどその仕事は演出家が決めたんですね。何に書いてありましたか?

藤田:当時のアニメージュに書いてあったんですけど…

小田部:そうですか。それは多分違うと思う。『じゃりン子チエ劇場版』は上方漫才の方を使ってますよね。

應矢:そうなんですよね。西川のりおさんとか。
ここはやっぱり関西の物語ってこともあって、関西人でノリがいいというので芸人にしようという流れだったんでしょうか?

小田部:どうなんでしょう。それも高畑さんに聞かないと。

藤田:上方芸人の起用については、まず、当時「花王名人劇場」というのが…関西のある程度の年齢の方々ならご存知なんですけど、漫才を見せる番組があって、それが漫才ブームの起点となっています。
その「花王名人劇場」を作り、そこから漫才ブームを作ったプロデューサーが関西におられて、その方とキティフィルムのプロデューサーが相談して『じゃりン子チエ』は関西だし、漫才ブームと相乗効果で」というのが流れだったらしいんですけど。

應矢:声を実際に聞いて小田部さんが原画を修正していく中でも声のイメージから絵を変えることはありましたか?

小田部:これも記憶にない。これプレスコでしたか。

藤田:『じゃりン子チエ劇場版』はアフレコですね。高畑さんも過去最悪の環境のアフレコだったとご自身で言ってたくらいの。当時漫才ブームで漫才師さんも大忙しでスケジュールが合わないから、全員バラバラで録って、掛け合いを一切録ってない。全部単独で録って後から合わせたとか。